【半島暮らし】2020.10-えきそあぽ便り2émè ’昼の思と塔’

※えきそあぽ とは‥ラテン語由来の外側のという意味。

今回は少しだけ個人的な内容を書き出すことにしました。たまたま知り合いの朗読を聴きに北原白秋の詩に触れるある夕暮れのことから。北原白秋は馴染みのありそうでなかった。聞いていると情景が思い浮かぶのだがどうも自分の中で型に嵌っているのである。そういうこともあってまだまだ味わう必要がありそうだ。ところでそんな2日後の今日、午後突然ピアノ弾きの友人から連絡を受ける。

自分の中で溜め込んでいたある構図が、その友人と話しているうちに具体的に映像に浮かぶ。人と話すということで得るものはやはり大きい。さてそこで出てきた話はある作曲家の話だった。塔、というタイトルでわかる人もいるかも知れないのだが、この旋律の響きについて、なぜか少し北原白秋の詩の流れの一部を思い起こさせた。どちらも、私には何か遠くにある想い、のようなものを手繰り寄せるような生温い温度感を感じる記憶を彷彿とさせてくれる。

いきなりなんだか抽象的ですみません、だけどこのいきなり抽象的なことが出てくる事象、に関してかなり前のめりに慣れていただけると嬉しい限りであります。

それはなぜか。

この手探りな世の中で、辻褄をうまく合わせること自体が少し回りくどいように感じることがあるように思えるからです。近ごろ私が感じたことは、帳尻を合わせるとかいうことではない地点にあるものを、いかに感じるのかということのように思っているからです。感情とはどういうものなのか、これは確実に暮らしの一部として切り離せません。

このいかにも壮大な単語は一見爽やかな暮らし、という単語と切り離して捉えることができるのですが、感情というこの重たくも面倒くさくもあるやっかいで、操作しにくいものとどう暮らしていくのかは永遠のテーマな気がしています。感情はドラマチックなことも含め、私たちの心臓を実際にバクバクと動かしていますね。そして脳の伝達により、揺さぶられ、泣いたり、怒ったり、笑ったり、喜んだりしているわけなんですが、この感情というものは暮らしのしっかりとした一員です。

私たちの暮らしは、物や建物だけではない、感情とももちろん一緒に暮らしているわけです。この感情というやつはちょっぴりやっかいで、誰のなかにも居合わせるなかなか操縦するのにちょっとしたエネルギーがいるんですね。あんまりそれに振り回されると、例えば秩序、とかそういうのとやりあうことになっちゃたり、色々課題を増やしてくれたりしますよね。

そこで、暮らしを穏やかにしたいと誰もがどこかで思っているとしたら、やはり環境、器、を整えるという行為が一つの暮らしの中には必要とされてきます。この、環境や周囲を整える、ということが感情を整えるという行為に繋がったりします。だから、整理する、という行為は感情と実は密接に繋がっている気がします。

掃除が得意ではない私がよく言ったもんですが、なんか心がざわざわしたら掃除をするといいという身近な友人が言っていた言葉を私はいつもざわざわした後に、思い出します。それでも、その行為を辿ることによって、いつの間にかスッキリしていることはよくあります。行為、に宿る意味の大きさというものが言葉を超えて理解する瞬間です。

ひるながら かすかにひかる ほたるひとつ もうそうのやぶを いでてきえたり

白秋は、何を歌ったのか。自然のような存在、小さく消えゆくホタルの残像から小さな光に見出す大きな宇宙的規模の存在。そんな言葉でしか説明できないですが、このミクロ級の小さなホクロのような点に大きすぎて手に負えない宇宙を見出すその存在の切なさ。それは私たちの持て余してしまう感情の水瓶に少しだけ安堵を与えてくれるような気がします。

海際に住む親戚の女性が言った一言を思い出すのですが、私たちの手に負えない大きな自然の存在には毎日助けられている、と言っていました。私は先日、聞いた北原白秋の詩と、今日久しぶりに会った友人と話したある作曲家の塔、の抽象的な旋律、海際に暮らしている親戚の一言、その断片的な私の日々の一部がこの暮らしという毎日の中にうごめく感情、というテーマをもう一度考えさせてくれます。もう一度、この感情を思い切り味わいながら暮らすきっかけを各々に捉えて生活の一部に照らしてみると面白ような気がしています。

今回はなんだか少し感情的な(あ、笑ってくださいね)お話にして見ました!皆様との細く楽しい感情のやり取りの一つになれば幸いです。

それでは、今日も良い1日でありますよう!