【えきそあぽ便り】2022.4-えきそあぽ便り10eme ’みつめる力’

’えきそあぽ’便り’      ※えきそあぽ とは‥ラテン語由来の外側のという意味。

第10回になる今回は唐突な内容をいきなり雑に話してみようと思います。

みつめる、という行為と
生きるという言葉は私にとって深く繋がっている。

居場所とは何か、それを私はかなり身近な目線で常に考えている。
いや、考えざるを得ないような境遇に身を置くことが多いとも言える。

それは性格や、説明不可能な次元でのしかし確実性を持った
自分自身との対話なのである。

手早く文字にして何かを発信するツールが世の中ほぼ全ての人の手に渡り、
何かを伝えるということはむしろ以前と違う意味を持つようになったと思っている。

個人レベルでの様々な問題を抱えながらも人生といういかにもドラマチックな言葉にごまかされながら、
その数々の複雑とされる事項をそれぞれのやり方でやり過ごして行くのだ。

しかし根本は、何もない。

その何もないことを埋めるようにして様々なことがまるで深刻なように
誘いかけてきたりするのだろう。

社会という大きなボールの中に
私達の時間が行き来しているが、
果たしてそこに幾度私の琴線に触れることが投げかけられているだろうか。

そしてもしくは、投げているのだろうか。

いつまでもわからないような質問を繰り返す、それは子供の頃から
一切変わりがない。

そして素晴らしい人々に出会い、時が流れ、
あたかも何かがあるかのような空気に満足をして行くのだ。

その満足というものが果たして満ち足りて、歩き出しているのかは
また別の疑問として棚にあげて置く。

今、生きる躍動感を全身を持って体感している気がしている。

それは何かがあるからじゃない。

全てのやり取りの中で、
自分の中の核心というものが芽生え、
それが全く別の方向から自分自身に問いかけてくるのだ。

今は、こんなことを書いておきたいと思った。

春の風は、何か見えない蠢きを感じる。
春は、そのイメージとは全く違うものを感じるのが実のところだ。

しゅっぽっぽー。